年度末でもあり、1ヶ月ほどサボってしまったつぶやき。
その間に、色々考えることもありました。
その中で、先日、TVで興味をひくコメントが流れていました。
安田純平さんが3年4ヶ月ぶりに武装勢力から解放され帰ってきたら「自己責任論」の嵐だった話。
「プロ人質」
「自己責任なのだから血税で身代金を払う意味がない」
「身代金詐欺?身代金目当てで、実は拉致者と共謀しているのでは?」
意見が様々にあるのは、悪いことではない。
でも、その意見に何の意味があるのだろうか。
その意見を向けられた相手に、どのように届くのか…どんな風に想像して語られているのだろう。
言うは易し、行うは難し。
確かにそうだ。
しかし、この言葉の範疇には入らないほど、普段の会話では無責任な言葉が飛び交う。
人は、俯瞰した立場にいると、気づけることがたくさん。
その気づきは、当事者でないからこそ気づけること。
それを、あたかも自分はよく気づけると思ってしまうところに落とし穴がある。
なので、いろいろ気づいたことを指摘したり、伝えたり。
でも、それを実行する話になると口で言うほど簡単ではない。
なので、口で言うほど実践が伴わない結果が待っている。
実践のない気づきの言葉は、指摘評論の範疇から出ない。
にもかかわらず…なのである。
自身のその意見は、きっと自身の個人的価値観や知識の範囲、経験値で語られているだけだと思う…。
さて、同じシリアから解放されて帰ってきたフランスのジャーナリストは、大統領が飛行場まで迎えに来たことと比べれば、この差はいったいなんなのか。
なぜ、こんなに日本とフランスは違うのか。
安田さんは、その違いを「日本人にとって、シリアの情報は必要ない。また欲しくない情報なので、どんなに命をかけて取材してきても『自分勝手に行ったんだから』という考えになるのではないか(要旨)」とのコメントなどがある。
私なりになるほど〜と納得。
私たちは、どうも知りたいこと以外は、無駄なことをしていると思う傾向が如実に現れた言葉だろう。
つづく…。